28.下郷野 神明宮

下興野神明宮は、JR(信越本線)新津駅の北700mの所に東向きに鎮座する。「神社明細帳」(明治十六年)に「中蒲原郡下興野字堤内 無格社 神明宮」とある。加筆訂正では「中蒲原郡三興野村大字下興野字堤内 無格社 神明宮」となる。

元和九年(1623年)の創立とされる。天照皇大御神を祭神とする。祭日は、四月十五日、八月二十四日・二十五日、(九月十五日)である。

境内社として諏訪神社(健御名方命)が記録されているが合祀されて現在は存在しない。明治四十一年に、元和九年創立の須佐雄神社(須佐雄尊)を合併した。神明宮の額に文化七年(1810年)七月とある。建て替えられた時のものか?拝殿と本殿は、一体型である。

※【須佐雄神社の解説】
スサノオは前半の半生、かなりの乱暴者で暴風雨を司るとされている。 高天原に混乱を招いたとして、追放されてしまうほどやんちゃな神。 暴風雨を司るスサノオは、その力強さが転じて「厄もなぎ払う」という意味で、厄除けのご利益があるとされるようになった。

【袈裟懸地蔵】
神明宮から市内の方向に50m位行くと袈裟掛け地蔵がある。逸話は下記の通りである。 「この地蔵尊は別名袈裟懸地蔵尊という。その謂は宝暦六年(1756年)に遡る。この年は、前年北陸一帯を襲った大飢饉の傷跡も癒えぬままに夏に追い打ちをかける様に大洪水が見舞った。この村とても例外ではない。打ち続く凶作に村民は打ちのめされた。しかも過酷な年貢は容赦しない。大量の餓死を憂いた名主喜兵衛は、当時藩の集荷積み出し港であった沼垂町で年貢米の不足分を補うと村のなけなしの金を集めてかの地で奔走した。だが米の手当てはつかず、万策尽きて、おめおめと帰村も成らず、思い余って出奔した。「亥年分御所納未不納出奔」出奔罪で追及の手は伸びた。名主出奔の村は、悲惨を極めた。喜兵衛の妻子は、「与兵衛義右同断につき、家財闕所御追放仰付致事」として村を追われた。組頭は(字が不明)、地持百姓の多くは、家屋敷を売り払い田畑没収又は質入れして村を去った。激動の数年、新旧の入れ替わりが有って村が落ち着くには時間を要した。
やがて村民の耳に出奔の喜兵衛が捕手の手に掛かり、逃げるのを躱し切れず、背に刀を浴び果てたという伝聞が入る。衝撃と追慕の念が喜兵衛の慰霊、供養へと駆り立てた。大慈大悲の地蔵菩薩の背に痛恨の刀傷を掘り入れて亡き喜兵衛、妻子、村を離れ一家離散の人々が酷薄な藩政に対する抗議も含ませた。
生きとし生ける凡てに憐れみを垂れたもう衆生済度の南無地蔵大菩薩。人呼んで袈裟懸地蔵という。」

【御神楽】
下興屋神楽=獅子神楽。青年会より奉納。演目:御拝舞・鈴舞・棒使い・四方舞・手踊・棒踊・花笠踊・麦蒔き。(byムーミンパパ)