79.延喜式内社としての旦飯野神社論争

新潟県に旦飯野神社を名乗って延喜式の式内社であると称している神社が、新潟市秋葉区朝日と阿賀野市笹神と2社ある事は、知られている。
現在は、圧倒的に阿賀野市笹神にある旦飯野神社が広告宣伝も上手く、本物と思われている。

1.歴史的・論理的に見た場合、阿賀野市の旦飯野神社は延喜式内社の確率は、限りなくゼロに近い。即刻「延喜式内社」の称号を外すべきだと思われる。

2.秋葉区朝日の旦飯野神社も延喜式内社を名乗る資格は、半分位しかない。

信心に関する事は、個々人が正しいと思った神様が正式なのであって、私が勝手に否定する事は出来ないと思います。しかし、歴史的な観点から俯瞰して、多分こちらが実際の旦飯野神社だったのでは無いかと推測する事は、やってみたいと思いました。
結論からすると「延喜式内社の旦飯野神社は、新潟市秋葉区朝日にあった。」とするのが歴史的に見た場合は、近いと考えられます。今の朝日にある旦飯野神社が延喜式内社であるとは、言っていないので注意して下さい。

【延喜式内社「旦飯野神社」(あさいいのじんじゃ)の歴史的条件】
3.旦飯野神社は、登録すればどの神社も名乗る事が出来た。
明治政府は、明治12年に全国の神社仏閣を整理して登録を開始しました。その際に、どう言う名前で届け出たかによって、その神社名を登録する作業を行ったので、旦飯野神社を名乗る事は、どの神社にも許されました。
しかし、延喜式内社を名乗るのは、歴史的に証明された所で無いと嘘を言っている事になるのでまずいと言わざるを得ません。

4.延喜式内社の歴史的条件は、2つある。
①延喜式内社とは、延喜5年(905年)醍醐天皇の勅命により全国より神威の高い神社を国司の上申した中より選び神祇式神名帳に登録され国家より新年祭等に幣帛を奉呈されることが義務付けられた神社のことを言います。
⇒この条件を満たすには、付近の歴史的な発掘物などを含めて、平安時代の延喜5年に都との往来が相当に活発で、その地に可なり沢山の人が住んで居て、国司の上申を受けて選ばれる程に神社信仰が根付いている必要が有ると考えられます。国司が推薦するに至る条件を満たしている必要があった
②越後の旦飯野神社は、蒲原郡に在ったということです。これは、延喜式内社の旦飯野神社は、蒲原郡に存在したとの記録が残っているからです。
⇒阿賀野市の笹神は、最初「沼垂郡」に所属していた記録が残っており、何時頃に蒲原郡に編入されたのか?今の所、解って居ません。ただ、蝦氏に対応した「沼垂の関」と言うのが、置かれたのが東区の辺りという説と今の笹神の遺跡が出た辺りでは無いかという説が在ります。阿賀野市笹神地区の遺跡は、古代からこの地に人が住んで居た事や都との交流があったことを証明するには十分なものの様ですが、平安時代は沼垂郡と見るのが歴史的には正しいと思われる所です。また、急流である阿賀野川が流れており、平安時代を考えると阿賀野川から東と西では、大きく文化程度が違って居たと考えるのが普通かと思われます。
5.新潟県の神祇式神名帳に記載された神社が、全て阿賀野川以西に存在して居る事を考えると阿賀野市笹神地区にあった神社を延喜式内社と考えるのは、可なり無理がある所です。
対して、朝日地区は、他の近隣神社の起源からしても、平安時代には既に村落が多く存在しており、多くの神社が存在したことは、歴史的遺跡群の発掘などからも十分証明されています。

【新潟市秋葉区朝日の旦飯野神社の歴史的背景】

(1)平安時代
近くに古津八幡山古墳(弥生時代)があり、平安時代より前から多くの人が住んでおり、村が形成されていたことが解ります。新潟県歴史資料館も近くに有るので、歴史的な裏付けは間違いないと思います。この地は、かなり多くの人が住みコミュニティーを作っていたものと推察されます。
秋葉区田家~金津地区の他の神社の創建年代を見ると金津城を作る際に発見された堀出神社(最初は祠)は、金津資義(すけよし)が生きていた時代なので1200年代初めころと思われます。中村の那加武良神社は、桜清水発見(1278年)より古い事は間違いありません。程島の両皇大神宮は、1040年の創建と成っています。白玉の滝の佐久那殿神社は、弘法大師が809年にこの地で修行をした当時から知られた滝で、神社が何時創建されたかは不明ですが、可なり古い事は間違いありません。

(2)平安時代~江戸時代
旦飯野神社は朝日地区の鎮守であり守護不入の場所であった。
下記は、朝日の村に伝わる口伝に寄るものです。
「旦飯野神社は、若宮八幡大菩薩(若宮権現)とも称され古来有名な大社で地方信仰の中心となし境内地約二千四百坪は往古 より守護不入の地として領主地頭も検知することもなかった。 境内には槻桜の樹多く中には高さ数十丈もあり夕陽には その影が東方四キロ米以上にも及んだといわれ、一本枝から臼が三十三個とれたという大樹もあったそうである。」
昔の話なので、ちょっと大げさな表現が使われているが相当の神社であったのは、解る気がします。

(3)江戸時代
新発田藩から朝日地区の鎮守を諏訪神社に変更する様に命令があった。
関ヶ原の戦いに参画して、禄を得た新発田藩に成ってから、鎮守を旦飯野神社でなく、諏訪神社に変更する様に命令があったという。多分、天皇家と関係のある神社の存在は許し難い面があったのだと想像できる。また守護不入の地では、租税も取れない事から、鎮守を諏訪神社に変更して、租税を取る所とした事は容易に想像できます。
その後、旦飯野神社は、火災等で衰頽し社殿も小さな祠となり建替えの資力もなく、普談寺の何処かに預けられと言われて居ます。その際、若宮権現という名称で言われていた様です。
(ここが、現存する旦飯野神社が本当に朝日に存在した旦飯野神社がそのまま、受け継がれて居るかどうかの証明が成されない所である。また、朝日のどの場所に延喜式式内社の旦飯野神社が有ったのかの証明をする必要があると考えられるところである。)

(4)明治時代
忘れ去られ、完全に出遅れて新潟県神社庁に登録申請する。
①「神社明細帳」(明治16年)時点では、今現在朝日で旦飯野神社を祀っている神社は「中蒲原郡朝日村字切通シ 無格社 諏訪神社」で届け出られており、旦飯野神社は、「中蒲原郡朝日村字若宮 無格社 旦飯野神社」で届け出られている。
⇒すなわち、現状をそのまま届け出たという状態になっている。その後、旦飯野神社の重要性を認識して、慌てて動き出した事が容易に推察出来ます。
②明治22年に「中蒲原郡朝日村字馬場 村社 旦飯野神社」として、「神社明細帳」に届けられている。
⇒朝日の人たちの慌てぶりが解る様な届け出の仕方になっています。
③明治41年(1908)に近隣に鎮座していた稲荷神社、石動神社、下諏訪神社、十二神社を合併して昭和5年(1930)に村社に昇格しました。
④明治22年に届け出た際に、当然ながら旦飯野神社としての由緒について審議の必要性がある事が記載されている。何故ならば、笹神宮ノ下の旦飯野神社は、明治16年時点で、登録料を納めて「村社 旦飯野神社」として届け出て受理されていたからである。従って、朝日の旦飯野神社は、届け出は出されたが、受理された形では無く、昭和五年にやっと正式に受理されている様な事態になっている。
⑤明治二十二年の届け出時点での関係資料を整理したものが下記のとおりである。
⇒旧地の普談寺の何処に在ったのかは、確認の必要がある。恐らくそこに荒廃して鎮守で無くなった後に間借りしていたものと思われる。同時に、間借りしていたものは、若宮権現と呼ばれて居たので、朝日に有った旦飯野神社を受け継ぐものであるかの証明も必要と思われる。

[延喜式神名帳]旦飯野神社 越後国 蒲原郡鎮座
          (旧地)旦飯野神社【旧地】普談寺
[現社名]旦飯野神社
[住所]新潟県新潟市秋葉区朝日535
    北緯37度46分2秒、東経139度7分16秒
[祭神]誉田別命 健御名方命
    (合祀)倉稻魂命 大入杵命 事代主尊 大山祇命 石動彦命
[例祭]4月19日 春季例祭 8月24-25日 秋季例祭
[社格]旧村社
[由緒]創立年月不詳
    文化8年(1825)火災
    明治22年11月5日無格社旦飯野神社を合併し旦飯野神社と改称
    昭和5年8月村社
[鎮座地]もとは朝日地内の字若宮かその向いの普談寺の地に鎮座
     明治22年11月5日現在の地に
[祭祀]江戸時代は「若宮八幡宮」と称していた
[社殿]本殿     幣殿・拝殿
[境内社]伊夜日子大明神・大山祇神社・十二神社・金毘羅大権現

(5)昭和時代
朝日の産土神として村社として認められたのが昭和5年

⇒昭和5年に「村社 旦飯野神社」として始めて承認を得ている。

⇒その後、神社としてネットなどで公表する動きも無く、阿賀野市の旦飯野神社の様に正月に行事を行う事も無く、延喜式式内社を名乗る事も無く、淡々と歴史の中に埋もれてしまっている。

【阿賀野市笹神宮ノ下 旦飯野神社の歴史的背景】

(1)平安時代
鈴木家古文書による始まりで、391年旦飯野神社と号する事を天皇から許されたとの記載がある。
①「鈴木家古文書」による記載
長野麿(神官の大祖)なるもの応神天皇の御弓、衣、石を斉祭、仁徳天皇御宇元年(391年)八月十五日大山守皇子へ貢米奉る、此時に角鹿笥大神、飯津神を奉祭すれば汝の里に百姓に種物出来るとの御教に因て「旦飯野神社」と号し奉祭、
⇒長野麻呂(宮司の鈴木家の祖)が御宇元年(391年)8月15日に大山守皇子へ貢米を奉った際に「角鹿笥飯大神、飯津神を祭れば汝の里に百姓また種物が出来る」との御教によって、旦飯野神社と号し、奉祭したことによります。
(続き)
元亀前上杉公の臣家笹岡旧城主山浦国清、今井源右衛門両殿の崇敬社と被定候、祖先より子孫次々三十八代藤原朝臣儀形まで官位ありて神勤せり四十代儀形の子儀定寛永十七年四月十六日(一六四0年)に神道吉田流(京都)より神官の許状を請此より後代は皆吉田殿より許状を請たり、祖先より子孫代々(小職六十五代)山浦神主と名のり四時祭式を怠たる事無く神明に奉仕致し居り(越後野志記、神職文化中マデ代オ重メル事五四世相続キ絶エズ)社の峯に新池古き泉水あり、北隅に神遊苑と称する所ありしが今草木茂りて荒廃せり(元馬場跡)大門、鳥居前は北陸道、南方は菱ケ嶽、東方は出湯の湯、後方は五頭山に当り、社地老樹森々として枝を交へ鷺は群り住居して風致極めて清雅なり(越後野志記、社地方八町許山林松杉老樹繁茂シ実ニ神サビタル霊地也)

⇒鈴木家の先祖について記載が有る所だと思われますが、本筋とは関係ないので説明は割愛します。
②現在の宮司さんから説明を受けて、まとめられた方の記載を下記に紹介しておきます。
旦飯野神社は、地域の氏神さまではなく、宮司である鈴木家の私的神社で、鈴木家の祖先が応神天皇を祀ったのです。今から約1700年前、鈴木家の遠い祖先に、長野麻呂(ながのまろ)という人がいました。長野麻呂は誉田別尊(ホンダワケノミコト)の弓、衣、石を祀り、それが、旦飯野神社の始まりだと言われています。何かしら、応神天皇に関係のある人だったのでしょうね。第16代仁徳天皇が即位したのち、長野麻呂は仁徳天皇の異母兄・大山守皇子にお米を献上しました。その時、御神託が下り、「旦飯野(あさいいの)」という名前がつけられたのだとか。旦飯野神社は、仁徳天皇の時代から長野麻呂の子孫である鈴木家が祭祀を続ける、約1700年もの古い歴史をもつのとされています。
⇒説明の①と②から、旦飯野神社の称号は全く可能性が無い訳では無いが、延喜5年(907年)に延喜式式内社として指定を受けた歴史的説明が全くなされて居ない。式内社に成るには国司の推薦が必要な訳で、その記載が全くないのは変な感じがする。
391年に天皇への米の献上によって、旦飯野神社を名乗る事が許されたことの説明は有るが、新潟県の蒲原郡に存在した旦飯野神社が延喜式の式内社として指定を受けたのは、905年頃の話である。指定を受けるに当たって、鈴木家の私的神社が国司の推薦を受けて延喜式式内社の指定を受けると言うのは可笑しな話の様な気がします。また、鈴木家内部では、神社は造営を何回も繰り返して居る様に書かれて有りますが、江戸時代に鈴木家が村の鎮守として祀って居たのは、八幡宮である。旦飯野神社を名乗ったのは、明治に入ってからである。

(2)平安時代~江戸時代
鈴木家の私的神社として造営している記載のみ
仁徳天皇御宇より永正まで四度造営、永正三年(1506年)五月二十日造営

(3)江戸時代
寛政四年(1762年)に造営されたものが本殿として今も残っている様で有るが、その時に八幡宮として造営したのか、旦飯野神社として造営したのかの説明が何処にもされて居ない。
享保四年(1719年)十月元宮と称す地に造改、寛政四年三月(1792年)本宮地へ奉祭造替て現今に至る、
江戸時代は、旦飯野神社という名称では無く、八幡宮として新発田藩と良好な関係を築いていたと言われている。
※ある人の建物についての創建年についての質問に下記の様に答えている。
随神門は日露戦争戦勝を記念して明治四十二年(1909年)に建てられたもので、拝殿の背後に流造りの美しい本殿に関しては寛政四年(1792年)の建造です。
⇒すなわち、寛政四年に建てられた本殿は、八幡宮として建てられており、旦飯野神社として建てたものでは無いという事です。

(4)明治時代
明治5年に「村社 旦飯野神社」として新潟県神社庁に申請して翌年承認を得ている。明治16年の全国の神社明細帳記載では、「村社(延喜式内社) 旦飯野神社」として届け出られているが、延喜式内社の所には、訂正線が引かれて受けつけられている。
⇒すなわち、新潟県神社庁としては、延喜式内社としては、現在も認めていないことに成る。
①「神社明細帳」(明治16年)によれば「北蒲原郡宮ノ下村字道上 村社(延喜式内) 旦飯野神社」とある。明治6年に既に村社として列せられて居た。加筆訂正では「北蒲原郡大室村大字宮ノ下字道上 村社 旦飯野神社」となって居る。加筆訂正では延喜式内社に線が引かれている。
②創立年は不明だが,長野麻呂(宮司の鈴木家の祖)が誉田別尊を祭ったのが起源だとされている。かつては「山浦八幡宮」と呼ばれていた。「明細帳」は由緒を「不詳」としたうえで創立にかかわる伝承をいくつか載せるが,いずれも要領をえない。「明細帳」が記す祭神は,主祭神が誉田別尊で,豊受姫命を配祀。さらに天照皇大神と天児屋根命を合殿で祭るとする。明治四年(1871),第二十四区の郷社となったが,同六年,村社に改められた。
⇒明治6年に旦飯野神社として既に県の神社総連に届け出られて村社として列せられて居たのは何故なのだろうか?明治政府は、尊王攘夷ですから、天皇に関係する神社の奨励に尽くしたことは知られて居ます。明治元年から明治3年まで水原の天朝山に新潟府があった事とこの届け出のスピードは関係しているのか?

(5)昭和時代
自前のホームページを持ち、「延喜式内社 旦飯野神社」として名実ともに世間に知らしめていく。
①下記の数々の利点を最大限に活かして、延喜式式内社「旦飯野神社」として名実ともに名前を知らしめていく
1).駐車場をしっかり確保できる。
2).いかにも神が宿る様な新潟平野の風景を眺望できる。
3).本物の旦飯野神社と思わせるストーリーをしっかりと作り上げて信頼を勝ち得ていく。
4).2018年現在の宮司の妹さんが、前職を退職してネットなどの情報を一元化して、新たな取り組みを行う事によって、更に名実ともに進化していく事となる。
②笹神村教育委員会が鈴木家古文書に関して基礎調査を行ったが、その後の結論を得ていない。古文書の書かれた年限などは、現代科学をもってすれば直ぐに解る筈なのにその古文書が書かれた年代も発表されていない。何かの物語の様なものは沢山あるが、歴史的裏付けに成るものは、今の所全く発表されていない。子供たちに歴史を正しく教える責任のある教育委員会として如何なものであるか?
古文書を鑑定に出し、「墨」と「紙」から書かれた時代を特定すれば真偽のほどは、簡単にわかる。書かれてある内容からすると、古文書は江戸初期以前に書かれていなければ、説明の理屈がつかないことになる。江戸末期に書かれてあるとしたら、作文以外の何物でもない事になってしまう。
神社庁の本庁の人が、笹神の旦飯野神社を訪問して調査し、対話した記録がネットに残っているが、最終的に中山神社を名乗る事でどうかという話しになったが、神社側は突っぱねて、「延喜式内社 旦飯野神社」を名乗る選択をしたという記載が残っている。
⇒神社庁も歴史的に見て、延喜式内社を名乗るのは、歴史をゆがめて良くない事であるという認識は示している様な感じではあるが、強く強制はしていない様に思える。
神社の発展に実績を残し良い事でもあり、上納などがあるので強く言えない状況なのかもしれない。



(勝手な私見)

笹神の旦飯野神社は、鈴木家の私的な神社として391年に始まったという鈴木家の古文書のストーリーになっています。延喜式内社は、延喜五年(905年)醍醐天皇の勅命により全国より神威の高い神社を国司の上申中より選び神祇式神名帳に登録され国家より新年祭等に幣帛を奉呈されることが義務付けられた神社です。
鈴木家の私的な神社が平安時代の国司の上申を受ける事など考えられるはずも無く、辻褄の合わない部分が多いと感じます。旦飯野神社が延喜式内社として指定された時代は、恐らく笹神の地は、沼垂郡に属していたものと思われます。旦飯野神社は、蒲原郡に属していたと記録が有るので、朝日の旦飯野神社が正式な延喜式式内社で有る事は間違いなさそうです。
また、現在の秋葉区朝日の一帯には、八幡山古墳をはじめとして、人々が古くから集落を作り耕作を行っていた歴史が有ります。古墳の宝庫です。朝日地区の口伝で伝えられている通り、守護不入の地として、この地区全体の鎮守として栄えていたことは間違いなさそうです。秋葉区朝日の近辺の神社の創建を調べても、可なり古い神社が多い事から、間違いなく朝日にあった旦飯野神社が正式に延喜式内社であると思われます。
しかし、秋葉区朝日の旦飯野神社の場合は、江戸時代の初めに新発田藩によって村の鎮守を諏訪社にするように命を受けて、江戸時代の約200年間は、村人にも忘れ去られる様な状態の神社でした。名前も若宮権現と変えるなど寂れていた神社だったのです。朝日の旦飯野神社の信憑性の疑われるのは、この若宮権現として残っていた事です。本当に正当な旦飯野神社を引き継いでいるのかどうかは不明な所が有ると言わざるを得ません。
明治政府が出来て、尊皇の思想を柱にするため明治16年に行われた「神社明細帳」登録の時に、朝日の「旦飯野神社」は完全に出遅れています。「村社」でも無く「無格社」として登録してしまっています。恐らく、その当時は普談寺の所に祀られており、何も考えずに登録したものと思われます。後に成って、気づいた村人が慌てて明治22年に成って、行動を起こしています。
現在の朝日の旦飯野神社は、新発田藩によって鎮守と定められた諏訪神社が普談寺に預けられて居た旦飯野神社(若宮神社)を合祀して「村社 旦飯野神社」として明治22年に成って申請し、昭和五年にやっと認められたものです。
朝日の対応が右往左往する間に、現阿賀野市の旦飯野神社は、明治五年に村社に列せられ、明治16年の「神社明細帳」で完全に村社として登録され、着々とその地位を上げて、新潟県神社庁にたいしても地域の住民に対しても信頼を勝ち取ってしまいました。現在、阿賀野市の旦飯野神社が正式では無いという論を掲げる人は少ないと思います。ネットを調べても全て肯定的な表現の書き込みばかりです。朝日の旦飯野神社に行っても丁寧な案内がある訳でも無く、駐車場なども3台くらいしか止める事が出来ない様な状態の所です。人々に信じ込ませるような有難い感じも少ない所です。ネットなどでのアピールの仕方もとても下手だと思います。対して、「新潟県&旦飯野神社」で検索すると自前のホームページを掲げて、しっかりとアピールしている阿賀野市の旦飯野神社は、魅力にあふれています。正月になると沢山の人で賑わう阿賀野市の旦飯野神社は、人々を魅了し、信じ込ませ続ける力があると思います。
神社は、御神体が一番大切な事を考えると、「どうなのか?」と思わざるを得ないところもありますが、御利益があると信じて疑わない人が居れば、神社の役目は果たされている訳です。物語的なものを信じるか科学や歴史を信じるかですが、神様の世界は多少物語的なものを信じる傾向が強いので、今の状態を是とするのが正しいのかもしれません。
しかし、ウキペディアなどの歴史的なものをしっかりと論ずる場所に、越後の延喜式内社は、阿賀野市の旦飯野神社だけが表記されて居るのは如何なものかと思っています。
歴史的に考えた場合は、延喜式内社を名乗る事が出来るのは、秋葉区朝日にあった旦飯野神社が5割方正しいと思います。100%受け継いでいるものかどうかは、歴史の証明が必要になると思われます。口伝で伝えられている「延喜式内社 旦飯野神社」の跡地を具体的に証明する必要があると思われます。
朝日地区の農地解放が行われる前に「地主」だった人の土地を徹底的に調べれば、恐らく「旦飯野神社」の名残が出土すると思われます。何故なら江戸初期に新発田藩によって取り潰された「旦飯野神社」の跡地に庄屋に成って入った人がいたはずです。

以上多角的な方面から、「延喜式内社 旦飯野神社」について論じて来ました。神様に関する事なのでバチが当たらない様に出来るだけ正しく論じて来たつもりです。考察の足りないところが有るかもしれませんが、神様に許して頂けるように願って止みません。

(byムーミンパパ)

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