01.堀出神社

何と言っても新津を代表する郷社である新津堀出神社からスタートしたいと思います。全て説明しつくす事は出来ないかもしれませんが、出来る限り語りつくしたいと思います。正月に二年参りに堀出神社に行かれる人も居ると思います。一度歴史などを振り返って訪れて見て下さい。感慨が変わると思います。由緒も神社の公式文章よりも長く、出来るだけ史実に基づいて書いて居ます。詳しくは、加筆訂正したWikipedia(ウキペディア)をご覧ください。(byムーミンパパ)

【堀出神社】
堀出神社は、JR新津駅の南500mに、北向きに鎮座する。「神社明細帳」(明治十六年)に「新潟縣下越後國中蒲原郡新津町村字横町浦三三七七番 村社 堀出神社」とある。加筆訂正では「中蒲原郡新津町大字新津字横町三三七七番 村社 堀出神社」になる。
旧郷社である。祭神は伊邪那岐神と伊邪那美神になる。旧新津の郷社として地域全体の祭礼が行われている。祭日は、八月十九日・二十日・二十一日大祭、四月二日・三日春祭である。


【堀出神社由緒】
1200年ころに平賀資義が金津に金津城を構築し、金津小二郎資義を名乗った。その築城の際、城の登り口に当たる、現在の金津公会堂付近に濠を掘っている時、二つの黄金の御神体が掘り出され、この跡から黒い水(石油)がこんこんと湧き出たと伝えられる。この跡を開基坪と称して石碑が建って居る。 城主、金津小二郎資義は、掘り出された二つの御神体を伊弉諾尊・伊弉冉尊とお祀りし、堀出神社の御神号で、当時の金津中木戸、西側の山の中腹に祠を建てて祀ったのが堀出神社の由緒である。
資義の三人の子供のうち、三男信資は1226年頃、山谷(新津自動車学校の所に碑が建つ)に分家して新津氏の始祖となり、新津城を作り新津越前守三郎信資を称した。
本家の金津氏が何かの都合で金津を去る時、その所領を受け継ぎ堀出神社の御神体も受け継いで新津城内に守護神として祀った。(⇒天正元年(1573年)と言われている。新津堀出神社の基となる)金津堀出神社は分霊を祀ることとなる。

新津氏は、上杉景勝に仕えていたが、慶長三年(1598年)の上杉氏の移封に従い御神体を報じて会津へ移り、さらに米沢へと転じた。こうして御神体は長く新津から離れていたが、当社に対する崇敬は篤く、米沢からの代拝も続いたという。
明治戊辰戦争のとき、24代続宗は米沢藩軍として越後に出兵し、14代勝資以来、初めて新津氏の当主として故郷新津に凱旋した。しかし、「長岡城の戦い」で39歳の若さで戦死した。その子続忠は、明治15年11月、14代勝資が持っていた掘出神社の御神体を返還した。
明治五年(1872年)には、村社に列せられ、その後、郷社に昇格した。
明治十三年(1880年)火災で焼失した記録がある。
明治二十三年(1890年)に現在地に再建した。

江戸末期から明治の初期頃の文献によると旧桂邸(新津交流センターからNTT新津辺りまで一帯が桂邸だった。)の横町通り側に堀出神社が有った事になって居るので、現在地に移る前に横町の道路に面した所に神社が在ったことに成る。何時の時点で横町に移転したのか不明である。冒頭の明治16年の「神社明細帳」に「中蒲原郡新津町村字横町三三七七番」と有るので、当時は文献通りに横町の道路に面した所に有ったと思われる。慶長三年(1598年)の上杉氏の移封時に横町に移転したのか、旧桂邸が出来た頃に移転したのかは解らない。
明治二十三年に、横町の道路に面した所から現在地に移って再建された。明治四十一年に現在の形に大改造している。

【境内社:天王八雲神社、五社神社、琴平・稲荷神社、伊夜日子・草那藝神社】 新津の総鎮守として知られる堀出神社の境内南隅に社殿が並んでいる。(堀出神社の左裏手に成ります。)
神社側から順に,天王八雲神社,五社神社,琴平・稲荷神社,伊夜日子・草那藝神社が現在は並んで居ます。以前に住吉神社が有りましたが本殿に合祀されたものと思われます。天王八雲神社,五社神社と住吉神社の三社は,「神社明細帳」の追記によれば本社に合併された神社です。社号を刻した石柱が建っています。「明細帳」が記録する境内社は五社です。
5月16日に境内を訪問したら左の天王八雲神社は、新町の神様で祭礼の期間中との旗が建っていた。他の境内社でも祭礼の期間中は旗が建つものと思われる。

いずれも寛永十五年(1638)の創立で,伊夜日子神社琴平神社合殿(天香護山命,大物主命),千倉稲荷神社(若宇迦能賣神),正清稲荷神社(豊宇迦能賣命),草那藝神社青麻神社合殿(天戸国命,青麻命),庚申神社(猿田彦命)です。
明治四十一年(1908年)字山谷の五社神社(宇迦魂神、宇氣母智神、豊宇氣比賣神、大宜都比賣神、大宜膳都神)と字堤外の住吉社(文禄二年(1593年)創立で、祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命)を合併、文禄四十三年(1910年)字狐塚の八雲神社(文禄二年創立で、祭神は、健速須佐男尊)を合併、さらに大正元年(1912年)古田新田字川向の神明宮(元和元年(1615年)創立で、祭神は、天照皇大御神)を合併しています。
境内には、五社神社と八雲神社の境内社があるが、記載のない「琴平神社・稲荷神社」と「伊夜日子神社・草那薙神社」も祭られている。

【手水舎】
堀出神社には、立派な手水舎が有ります。各神社の手水舎だけを並べても、面白い違いが有るので、手水舎は必ず掲載して行きます。石や水場だけが設置されており、手水舎の無い神社も沢山有ります。

【忠魂碑】
忠魂碑は、戦没者の慰霊碑です。個人を讃える忠魂碑も有りますが、多くの人の霊が刻まれて居るものも有ります。なお、堀出神社の忠魂碑は、柵で囲まれて居て入る事が出来ません。裏面に何が記載されて居るのか実は解りません。

【堀出神社碑】 拝殿に向かって左側の隠れた所に堀出神社碑という碑文が有ります。米沢からご神体が返還された時に記念して作られたものだと聞きます。碑文との事で、堀出神社の由緒が書かれてあるとのことですが全く読めません。

【神楽殿と栄町御神楽】

旧新津に存在する神社に伝統的に残っている神楽(かぐら)が数多く奉納された神楽殿が有ります。各村の神楽については、各村の神社の紹介の所で記載して行きます。
栄町神楽は、自分たちの町内に神社が無い事から、堀出神社に合祀された神社の一つが栄町の産土神だったのでは無いかと思われます。神楽と神社の関係性では、堀出神社の中に入れて置くのが正しいのだと思われます。宮のぼりの屋台の中で演じて居る唯一の神楽なので、堀出神社の御神楽に分類します。 栄町神楽は新津総鎮護「堀出神社」の御膝元に位置し、7台の祭屋台とともに新津夏祭り(堀出神社例大祭)に参加しています。栄町神楽の歴史につきましては、衰退と再興を繰り返し資料が無く、現在の形になったのは、昭和40年代に近隣の山谷町出身のものからお教えていただいたものが伝わっていると聞いています。その後、大勢の若衆の手を経て現在に至ります。
栄町神楽の見どころは、5円玉の福撒きと、祭りの締めくくりに神社前の交差点で舞う神楽舞です。
下記に栄町神楽のyoutube映像のアドレスを掲載しておきます。

【桂家祖霊社】
新潟日報2021.12.18の記事に桂家祖霊社(それいしゃ)が堀出神社の本殿の後ろで見つかったという事で写真を撮りに行きました。本殿の後ろの見えない様な所に有り、高い位置にあるので、気づかなかったのだと思います。由緒を見ても、堀出神社と桂家は関係性が深い様です。鳥居と玉垣に桂さまの家紋があり桂家からの寄贈だそうです。

【桂家の良寛とのエピソードと堀出神社境内のザクロ】
6代目当主の桂誉正(たかまさ)と妻とき子は、良寛の弟である橘由之(たちばなゆうし)に和歌を学びました。その縁もあって、文政13年9月に、譽正夫妻は邸内に実ったザクロを病床にあった良寛へ贈りました。1か月後病床にあった良寛の元に届いた時にはザクロはすでに腐っていたそうですが、良寛は感謝の思いを和歌に表しました。
 もろてもて ななのたからを くれなゐの ひとのたまもの おしいただきぬ
この歌の碑は、秋葉公園の日本庭園に立っています。また、桂家の邸内にあったザクロの木は堀出神社の境内に移植されています。