15.市新 水神社

市新水神社は、JR磐越西線の新関駅の北東2.0Kmに鎮座している。「神社明細帳」(明治十七年)によると「中蒲原郡市新村字南作 無格社 水神社」とある。加筆訂正では「中蒲原郡新関村大字市新字南作 無格社 水神社」となる。


当神社は、文化十三年(1816年)に創立された。市新村、下新村、阿部新村の三箇村で信仰されていたが、明治七年(1874年)に市新村の産土神と定められた。祭神は彌都波能賣伸である。祭日は、三月十五日、八月二十三日(二月十五日)である。


拝殿の瓦には、「水」の文字が見える。拝殿に額は掲げられていない。本殿は、独立して立っており参拝できる。


水神社には、下記の通り由来が書いた看板がある。
【市新水神社の由来】
文化十三年(1816年)阿部新村に身を置く時の大庄屋「本間家」と阿部新村及び近隣の下新村、市新村は当時頻繁に氾濫を繰り返し農作物に甚大な被害をもたらし農民を苦しめていた洪水の窮地から農民を守るために神仏に救いを求めていた。時の大地主で庄屋を営む「本間家」が自費を投じ、この度重なる水害の窮地から農民を守るため、水の守り神「水神社」を建立した。この「水神社」を水害からの守り神として、当時の阿部新村、下新村、市新村の三村の住民が守護神として崇拝していたが、その後も治まる事の無い河川の氾濫で、阿部新村は、村ごと現在の下新村へと移村した。阿部新村移村に伴い残されたこの神社を明治七年(1874年)に市新部落の住民がこれを村の守護神社としたい旨、「本間家」に願い出て、移譲を受け、これを市新村の産土神に定めた。市新村民は、村の鎮守様として祀り崇めて今日に至り、現在は市新部落が単独で維持管理する「市新水神社」として、深く信仰し地域の安泰と豊穣を願い春・秋には盛大な祈願祭も執り行われている。
祭神=弥都波能売神(みずはのめのかみ)
御神体=「水神の祀 文化十三年十月十四日 従四位下 源定信(松平定信)書」の書幅が祀られている
松平定信=陸奥の国白河藩第三代藩主、天明の飢饉で「寛政の改革」を断行、後に第十三代将軍徳川家斉の老中を拝命 なお、現在の社殿は、安政二年七月に再建されているが、その訳は資料無く不明である。

元々水神宮の位置は、現在の新津コンクリート工場の土手に在ったと推測される。何故なら今もこの土地には、「赤道」が存在することから、かつて現在の様な堤防が存在しなかった時代は、一面川原の平地に集落を形成したものと推測できる。(集落形式の歴史は多くの文献から河川流域に点在し、農耕を主とした生計が営まれて居た事が確認できる。その後、新田開発の変革により、内地でも農耕が盛んに成ったと考えられる。)現にかつては河川沿いに点在した部落が建立した神社が、後に内地の集落に合村したことにより、流域には合祀した神社が多く点在する。(byムーミンパパ)

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