75.(金津)堀出神社
堀出神社は、旧新津市の神社を語る上で大切な神社です。75回に渡って神社の解説をしてきましたが、(新津)堀出神社に始まり、(金津)堀出神社で終わる事とします。
今までの神社紹介は、入口⇒鳥居⇒拝殿⇒額⇒本殿⇒境内社・その他付随の事柄の紹介でやってきました。金津堀出神社は、紹介するものも多く、語らなければ成らない事も多いので、かなり長い説明に成ります。
【神社紹介の手順】
神社紹介の手順も写真掲載の順番も入口から入って、拝殿と本殿に至るまで順番に説明して、最後に付随する事柄に関して説明して行きます。
入口は、堀出神社の石碑から始まります。大正八年六月十五日の建立になっていますので、堀出神社を作る話が大正五年に出されて、十一年に最終的な造営が済んでいますので、その途中で建立されたものだと思われます。


石碑の先に赤い橋があり、橋を渡ると第一の鳥居がある。堀出神社の額が掲げられた太い支柱の立派な鳥居が出迎える。


鳥居をくぐると結構急な石段がある。石段を登りきり、右に曲がると第二の鳥居と拝殿が遠くに見えて来る。


第二の鳥居まで進むと右に社務所があり、左に手水舎がある。



その先は、ここから先は神社の内側と思わせる石柱の柵と入口に二つの石碑がある。下記の通りの記載がある。
(入り口の二つの石碑(右:敬神崇祖、左:順春者存(?)) 敬神崇祖は、髪を敬い祖先を崇拝する日本人の思想の元となる考え方だと思います。左の順春者存(?)をネットで引くと以下の言葉が出て来る。何故か解りませんが、多分そういう意味で合っているのだと思います。
「天に順う者は存し、天に逆らうものは滅ぶ」ということわざは、天の道理や自然の法則に従って行動する人は繁栄し、それに反する行動をとる人は最終的には失敗する、という意味を持っている。


石柱を通って入って行くと拝殿が見えて来る。拝殿の前には参拝の人の雨よけ用の覆いがある。

金津堀出神社は、JR矢代田駅(信越線)の東2Kmに鎮座する。「神社明細帳」(明治十六年)に「中蒲原郡金津村字居村 無格社 堀出神社」とある。加筆訂正では「中蒲原郡金津村大字金津字居村 無格社 堀出神社」となる。祭神は、伊邪那岐尊と伊邪那美尊である。祭日は、四月二十七日、八月二十七日である。

源義光(新羅三郎)の子、平賀盛義が蒲原郡の護摩堂山に築城して平賀氏を称した。年月日は不明であるが、護摩堂城落城したため、1200年ころに平賀盛義の孫、資義が金津に金津城を構築し、金津小二郎資義を名乗った。
築城の際、城の登り口に当たる、現公会堂付近に濠を掘っている時、二つの黄金の御神像が掘り出され、この跡から黒い水(石油)がこんこんと湧き出たと伝えられる。この跡を開基坪と称して石碑が建っている。
城主、金津小二郎資義は、掘り出された二つの御神像を伊弉諾尊・伊弉冉尊とお祀りし、堀出神社の御神号で、当時の金津中木戸、西側の山の中腹に祠を建てて祀ったのが堀出神社の由緒である。
金津氏の勢力範囲は現新潟市秋葉区及び江南区の亀田、横越地区に及ぶ廣い地域で資義は、三人の子供のうち、長男死亡で二男、資直が金津城の跡を継ぎ、金津蔵人左衛門尉資直と称した。三男、信資は1226年頃、山谷に分家して新津氏の始祖となり、新津城に拠って、新津越前守三郎信資を称した。
兄の資直は、金津の庄の地頭職となって、新津家とは両家親しく交際してきたが本家の金津氏が何かの都合で金津を去る時(年月不詳)その所領を受け継ぎ堀出神社の御神体も受け継いで新津城内に守護神として祀った。(⇒新津堀出神社の基となる)
金津堀出神社は分霊を祀る。
取材して解った事であるが、新津堀出神社の御神体は、明治の消失で、現在は別のものが祭られている。以前は男女の性器そのものが祭られていたと神職に口伝で伝えられていた。記載文献などでは石油の沼から仏像が出たとされているが、本当はミイラのようなものが出たことに成るのでは?と密かに期待を寄せていた。金津には、分霊が有るとの事であるが、どんなものが分霊として残されているのか興味は尽きなかった。しかし、金津堀出神社の歴史を調べた所、平成10年(1998年)放火によって本殿を焼失していた。ひょっとして金津堀出神社には、「御神体の謎を解くカギが残されて居るのでは?」という期待は裏切られ、御神体が何であったのかは、全くの謎になってしまった。
拝殿には、額は掲げられていない。拝殿の中を他の人が撮った写真が有ったので、拝借して掲載して置きます。


本殿は、拝殿の後ろに繋がっているが、石柱で通路が作られており、拝殿からしか入る事が出来ない。

【境内社】
堀出神社入口にある説明書きによると金津地区には、木戸鎮守として12社の神社があり、参拝するのが大変だった上に、祭典は各木戸ごとに奉斎されており、村人に大きな負担がかかっていました。下記の様に大正五年に当時の日本の石油王であった中野寛一翁は、村人と相談の上、土地(約200坪)と造営費(現在価値で約1億円)を寄進し、認可を得た上で10社を堀出神社と合祀し、大正11年に荘厳な神社を造営した。
大正五年(1916年)に、村内の多くの神社を合併した。字滝下の大山祇神社(大山祇命)、宇居村の羽黒神社(素戔嗚尊)、宇居村の久須志神社(大己貴命、少彦名命)、宇居村の諏訪神社(健御名方命)二社、宇居村の神明社(天照大御神、菅原道真朝臣)、宇居村の諏訪神社(誉田別尊)、宇居村の稲荷神社(倉稲魂命)、また別の稲荷神社(倉稲魂命)である。
金津・古津地区の神社は、明治から昭和にかけて合祀が盛んに成された事がわかる。金津堀出神社では、本殿に完全に合祀されて社殿は残っていない。
【金津堀出神社の境内に存在する庭の紹介】
金津堀出神社の庭は、かなり広い。四季折々の風景が展開されて訪れたものを和ませてくれる。秋の紅葉の庭の写真と干上がった池の写真を掲載する。



【石碑の紹介】
境内の中に碑文の様な石碑が2つある。恐らく、何方かは神社を建設した際に建て由緒を書いた碑文だと思われる。新津堀出神社にも同じような碑文が残されている。
[心如鐵石(しんじょてっせき)の碑文]
人の忠誠心が非常に強いことのたとえ。心が鉄や石のように堅く揺るがないとの意から「心(こころ)、鐵石(てっせき)の如(ごと)し」とも読む。
[天府無蓋(てんふむがい)の碑文]
天府は、地味が肥え、物産の豊富な土地、天然の要害の地、天使の産、天皇の倉を意味する。無蓋は、覆いや屋根が無い事を意味する。


【阿吽の像と獅子の像】
阿吽の狛犬の阿吽の像と完全なる獅子の像が境内にある。



【境内に在る石神】
境内の端の方に石神が4柱ある。記載文字から推察すると、明治時代にここに在った石油井戸の責任者が神様を祀ったものと思われる。




【金津城跡】
金津堀出神社の右側に山に向かって行く道がある。そこを100m位行くと桜広場と呼ばれる広い削平地があり、そこに金津城跡の看板がある。道は、右手に折れて山を登って行く形に成っているので、間違わない様に真っすぐ進んでください。遊歩道は「白玉の滝」まで続いています。金津城の歴史と堀出神社との関連も解ります。

【開基坪】
開基坪は、石油記念館の直ぐ側に有る石油の油田跡の所を辿って、少し入って行くと見えて来ます。碑が建っています。金津公民館の隣になります。金津城の築城の際に濠から御神像と、黒い水が出て来たという。原油が湧き出た場所です。御神像は、堀出神社の基に成る訳ですが、堀出神社の神主に口伝で伝わったものとして、御神体は、男女の性器を象徴するもので有ったとの事です。それからすると出てきたのは、ひょっとするとミイラの様なものでは無かったかと想像できます。築城したのは1200年頃ですから、鎌倉時代になります。新津の一番古い寺が妙蓮寺で創建が1288年ですから原油の中から神像が出て来たと言うのは考えにくいと思います。鎌倉時代にミイラの様な男女の遺体が出土すれば大変な事です。手厚く葬られたと想定されます。それが堀出神社の発端では無いかと考えられなくも有りません。現にエジプトのミイラの最後の保存方法は、石油に漬けるという事のようです。
出土した御神像は、七色に輝いて居たと伝えられます。原油が光に反射すると七色に輝くのはご承知の通りです。筆者の勝手な想像ですが、ロマンを感じる話なのかもしれません。残念ながら新津堀出神社も金津堀出神社もの現在の御神体は、焼失しているようです。(byムーミンパパ)
