安吾の「安」は大安寺の「安」?

坂口安吾の「安吾」は、本名ではなくペンネームです。本名は「炳五(ヘイゴ)」です。「炳」には光り輝くという意味もありますが、ヒノエウマ(丙午)の年に生まれた五番目の男子とのこと。音も炳五=丙午で通じることから、安吾自身「ヒノエウマづくしのような名前だ」と記しています。
ヒノエウマについては、八百屋お七の放火事件以後、「丙午の年に生まれた女性は気性が激しく、夫を不幸にする」という迷信が広まっていました。そのため、1906年、1966年とも出生率の低下が見られました。安吾も親類の年寄りたちから「お前男に生れてよかったな、女なら悲しい思いをしなければならないなどとよく言われた」そうです。
また、安吾はこうも書いています。「私の生れた新潟では寸をつめて名前をよぶ癖があって、ヘイゴをヘゴとよぶ。敬称のサンを略して「ヘゴサ」とよぶのである。音がよくない。いかにも臭そうだ。それに新潟では弱虫をヘゴタレと呼ぶから益々よくない。」(以上「ヒノエウマの話」より)
そんな名前を少しでも変えたかったのか、安吾は小学生の頃から「炳五」の「五」を「吾」に変えて書くようになり、兄の献吉も画帳に「炳吾」と書くほどでした。安吾は1919年に新潟中学(現・新潟高校)へ入学しますが、校風への反発や視力低下による成績不振で2年生の時に留年してしまいます。その頃から、教師たちに「アンゴ」と呼ばれるようになりました。
「暗吾=自己に暗い奴」、光り輝いていないボンクラということですが、本名よりも響きがいいので、それを自分のニックネームにしてしまいました。親友の檀一雄は「ペンネームと云うよりは、早くから自分の呼び名に変えてしまっていたのかもわからない」(『坂口安吾選集』第8巻解説)といみじくも指摘しています。
では、「暗吾」がいつから、なぜ「安吾」になったのか?実は、それがはっきり分かる資料がないのです(そもそも、若き日の安吾に関する資料は数少ないのだとか)。
成績不振の安吾は、1922年に東京の豊山中学(現・日本大学豊山高校)へ転校しました。その翌年、1923年3月に安吾が新潟中学の先輩へ宛てた手紙が、2022年に発見されました。その手紙には「安護」と署名されているそうです。「護」は学校の隣にあった護国寺から採ったのかもしれませんが、「安」の由来は謎のまま。
そして、1925年3月に豊山中学を卒業した際の卒業アルバムに「坂口安吾」と記されているので、それまでには「安吾」と名乗っていたことが分かります。また、中学を卒業してから1年ほど小学校の代用教員を務めた時も、生徒たちから「アンコ先生」と呼ばれていたそうですが、それは自分のことを「アンゴ」と名乗っていたからでしょう。その頃に友人へ宛てた手紙の中にも「やあ、めずらしや、安吾」と書かれているそうです。
なお、新潟中学の教師から「アンゴ(暗吾)」と呼ばれるようになったと、安吾本人から聞いた友人の鵜殿新(新一)は、その話に続けて以下のように証言しています。
後年坂口が東洋大学に入ってから「僕は荒行で悟りを開いたから、安吾にしたんだ」と言うと、照れかくしに坂口は呵々大笑したことであった。(「わが師表」)
この証言から「安吾」は、仏教用語「安居」(僧侶が夏に籠って修行をすること)のもじりだとする説が生まれました。実際、東洋大学在学中は読書のし過ぎでうつ病になってしまうほどだったそうですが、それは小学校の代用教員を辞めてからのこと。その前に「安吾」と名乗っていたことからすると、果たしてそうなのか怪しい気もします。
結局、なぜ「安」吾なのかはよく分かりません。インターネット上にはいろいろな説があって、中にはこんな説もありました。
安吾は、大安寺村に土着するまでの自分のルーツに非常に興味を持っていた。(中略)安吾は、自分の祖先の居住地の大安寺という名前に愛着を持ち、安の字を一字使い、安吾を思いついたという。
出典:http://park2.wakwak.com/~fivesprings/toti/jinbutu/ango.html#gsc.tab=0
確証はまったくありません。しかし、安吾の「安」は本籍地である大安寺の「安」というのは、一秋葉区民としてはとても魅力的なものです。いずれにしても、新たな資料が発見され、この謎が解明されることを祈るばかりです。

