大安寺神明宮の社号碑

大安寺にある神明宮は、大安寺の産土神です。その鳥居の南側に、背の高い社号碑が建っています。碑の表面には「神明宮 坂口献吉 敬書」、裏面にはこの碑が1955年9月7日に奉納されたことや奉納者の名が刻まれています。
神明宮と書いた坂口献吉(1895~1966)は、坂口仁一郎の長男で安吾の兄です。早稲田大学を卒業した後、1926年に父がかつて社長をしていた新潟新聞社へ入社します。そして、1942年に戦時中の新聞社統合で新潟日報社が誕生すると、専務取締役、社長、会長を歴任しました。また、1952年にはラジオ新潟(1961年、新潟放送に改称)を創立し、初代社長に就任しました。晩年は、1964年に発生した新潟地震の復興記念事業となる新潟県民会館の建設にも尽力しています。


献吉は、神明宮の氏子総代から依頼を受け、社号碑と幟に筆を振るうことになりました。それに当たって、新潟市名誉市民・早稲田大学名誉教授で、書家として有名な會津八一(1881~1956)に心得を尋ねました。八一は父・仁一郎とも親しく、同じ早稲田大出身者であり、戦災にあった八一を新潟に疎開するよう手配したのが献吉という親しい間柄でした。献吉の尋ねに対し、八一は二度にわたって手紙で懇切丁寧にアドバイスをしています。以下はその一部ですが。
- 「坂口献吉謹書」と一行で書くと文字がつまって書きにくいから、謹書の前で改行すると収まりがいい(実際は「敬書」と書いていますが、改行はアドバイスどおり)。
- 石に刻む文字はちょっと太すぎるかと見えるほど肉太がいい。
- 刻んでみて効果的な方がいいので、後で書き足しても差し支えない。
- 筆を振るう時、周りに氏子たちが大勢いるかもしれないが、誰もいないような気持ちになって、悠々としずしずと書くのがいい。
- あなたが書く時、私がそばにいない方が心安いだろうから遠慮する。
献吉は以上のような八一のアドバイスを忠実に実行しました。八一の影響を強く感じさせる書体で、これは献吉と八一の合作だと地域の人たちは評したそうですが、言い得て妙だと思います。
この他にも、献吉は自分の本籍地にあった旧阿賀小学校の図書館へ掲げる額に「五峰館」(五峰は父・仁一郎の号)と書き、同校へ図書やテレビの購入代を寄附したりもしていました。献吉もまた、父祖の地である大安寺を大切に思っていたことが分かります。
そういえば、献吉も今年(2025年)が生誕130年、来年(2026年)は没後60年とアニバーサリーイヤーです。安吾と一緒に兄・献吉のことも振り返ってみてはいかがでしょうか。
参考 『坂口献吉追悼録』(BSN新潟放送・新潟日報社、1966年)
長坂吉和『會津八一と坂口献吉』(新潟日報事業社、1979年)
