24.満願寺 神明宮

満願寺に有る神社は、現地に行くと神社名が解らない。鳥居の文字も読めず、拝殿に額も掲げられて居ない。現地では解らなかったが、ネットの検索では、神明宮となって居る。

満願寺神明宮は、阿賀野川左岸の土手下、旧新津市の満願寺地区に鎮座する。「神社明細帳」(明治16年)には「中蒲原郡互賀村字満願寺枝橋 無格社 神明宮」とある。祭神は、天照皇大御神(大山祇命、櫛御気野命)である。創立は不詳だが、「明細帳」に天正年間(1573-1591)の創立と伝えられると記載がある。文政元年(1818年)に焼失し、翌年再建した。大正六年(1917年)に境内社の住吉社(表筒男命、中筒男命、底筒男命)と諏訪社(健御名方命)、また明六割に鎮座した須賀社(素盞鳴尊)を合併し、現在の地に移転した。その時の加筆訂正の住所は「中蒲原郡満日村大字満願寺字原中第四千五百五拾九番畑七畝二拾六歩 無格社 神明宮」となっている。満願寺の産土神である。祭日は、八月二十七日・二十八日(三月一日、九月十六日)である。

本殿は拝殿から飛び出た所に安置されており一体型に成っている。隣には満願寺の集会場が建てられている。
大安寺神明宮に満願寺上組の諏訪神社が合祀されて居るのは、前々回に記載した。近くの中新田を飛び越して、何故、大安寺に合祀されたのかは不明である。「神社明細帳」によると満願寺上組の諏訪神社の方が満願寺神明宮より古くから存在しており、満願寺神明宮は、満願寺諏訪神社の氏子としての地位にあったと記載がある。満願寺諏訪神社が大安寺に合祀されたことを受けて、大正六年に満願寺神明宮は今の場所に移転して、満願寺の産土神として祀られることに成った。
満願寺神明宮は、現在の阿賀野川の土手より低い位置にある。昔の土手は、神社と同じ高さだったのを覚えて居るので、旧新津では珍しく土手の上に建てられて居る神社である。旧新津市の川沿いにある神社は、水害の安全を祈願して、川に向かって土手の下に建てられている神社が殆どである。大正時代に今の場所に移ったからだと思われる。

【満願寺観音堂】
満願寺神明宮の隣に金剛力士像がある仁王門が有って、その先に観音堂が有ります。観音堂ですから仏教の寺という事に成ります。墓所は神社の右手の少し離れた所に有ります。

満願寺(まんがんじ)観音堂を護るため、仁王門の左右に阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)一対の金剛力士像が安置されています。仏法を守護するためのインド古来の武器、金剛杵(こんごうしょ)を持った武神、力のある武神であることから金剛力士といわれますが、一般には二つの神王という意味で二王(「仁王」と表記される)と呼ばれ親しまれています。表情はたくましく、「裳(も)すそ」の彫りも深いですが、躍動的というよりは静的威圧を感じさせる像です。

この金剛力士像には、由来が書いて有ります。『金剛力士(仁王)は、仏の一切の秘密事迹を知り、500の夜叉神を使役して現世の千仏の法を護ると言われて居ます。筋骨隆々、逞しいこの金剛力士像の作者や営造年代は不明ですが、仁王門は天和元年(1681年)に石川与次右衛門が創建したものです。なお大正七年(1918)9月、阿賀野川の改修によって字枝橋より現在地に移転された。』
満願寺観音堂が昔存在した住所(枝橋)を見ると元々満願寺神明宮が有った住所と一致しており、神明宮が大正6年に移転する前の所に満願寺観音堂もあったものと思われます。満願寺神明宮が移転した一年後に後を追う様に同じ場所に移転してきたことに成ると思われます。

【観音堂の裏手のお堂と庚申塚】
観音堂の裏に小さなお堂があり、その右手に甲申塚が有ります。小さなお堂の色口には下駄箱が備えられています。中に何が有るか不明です。

【満願寺獅子舞】
満願寺獅子舞は、江戸時代末期より200年以上守り続けられている伝統芸能です。会員が減少し存亡の危機にさらされた時期もありましたが、昭和51年(1976)に再発足し、現在に至ります。現在は、子供から年配者までが獅子舞を舞い、他の地域のイベントや発表会にも積極的に参加して居ます。(byムーミンパパ)