44.三ツ屋 八幡宮

三ツ屋八幡宮は、JR信越本線の新津駅の北西1.5Kmの信濃川の土手下あたりに小阿賀野川を背に鎮座する。祭神は譽田別尊で覚路津(三ツ屋)の産土神である。境内にある石碑などからするとこの地の最大の悩みは治水に有ったようで、近くに大秋排水機場があるが、その稼働する前はこの地に排水の門が有ったことに成ります。治水を願って建てられた神社と思われます。
信濃川沿いに有る神社は殆ど川の方向に向かって建てられています。しかしこの神社は、信濃川を背にして建てられています。義民与五兵衛の碑に書いて有る様に、排水の水門が神社の向いている方向に有ったものと思われます。神社の前は、大きな空き地になって居ます。神社に向かって右手に公民館の建物があります。神社の立地場所は、現在は野方の集落が近い形に成っていますが、たぶん現在道に成って居る所が昔は水が流れていて集落が完全に別れていたものと思われます。

この神社は、「神社明細帳」(明治16年)には記載が有りません。可なり大きな神社なので、理由は不明です。覚路津(三ツ屋)と成っており、1村1神社の原則で、あくまでも覚路津の一部地域の取り扱いに成る為届け出されなかったものと思われます。その流れで現在も新潟県神社庁に未登録の神社となって居ます。この地区の治水の要となる神社だったことを考えると、後世への遺産として神社庁に未登録というのは、如何なものかと思われます。

拝殿に八幡宮の額が掲げられて居ます。本殿は、拝殿と一体型で突き出した形に成っています。

【境内社】
境内社として稲荷社があります。神社に向かって鳥居の左側に建てられています。立てたのは平成八年九月である。経歴は全て不詳です。

【義民与五兵衛の碑】
水門の故障を直すため、水門の底に潜り、身を呈して3700ヘクタールの耕地を冠水から救った。
天保11年6月26日(1840年)、信濃川大増水の時、ここ、古樋川三津屋樋管では、自然に閉まる筈の門扉が閉まらず破堤の恐れがでてきた。
その原因をさぐるため濁流に飛び込んだ小須戸組三津屋の平川与五兵衛(25才)は、「古樋のワッチョ(大蛇)が邪魔をしている。追い払うため大鎌で斬りかかる。相討ちになって死んでも必ず門扉は閉める」と言って大鎌を持って再び樋管の所へ潜った。門扉は閉まり、数千町歩の田畑と民家は水没をまぬかれたが、与五兵衛は心臓をえぐり取られ水底に沈んだ。
数年続いた天保大飢饉に、飢えの惨めさ、苦しさを知っていた与五兵衛が身を捨ててまで護ろうとしたのは、白い飯の食える豊かな村だったにちがいない。
平成3年(1991年)、地元の有志たちにより“与五兵衛を偲ぶ会”がつくられ、新津郷土地改良区、新津中央農業協同組合はじめ、多くの住民の方々から寄せられた浄財により鎮魂・顕彰の碑が建立された。

【潟沼干拓の源(新津郷排水発祥の地)の石碑】
今までの説明の通り治水に関する石碑が建てられています。(byムーミンパパ)