非核平和都市宣言

昭和60年(1985)9月、当時の新津市では「核兵器をなくし平和を守る新津市宣言の実現を進める市民の会」の趣旨を踏まえ9月議会に提案され承認されました。その後、新潟市に合併、平成17年(2005)に新潟市でも「新潟市非核平和都市」を宣言しました。

昭和63年(1988)新津市民の募金により建立されたモニュメント「運命の日の時計(核の時計)」核戦争による地球破滅を午前零時になぞらえ、針の動きで核の危険を警告しようとするものです。(秋葉区役所の敷地内にありました)

新潟にとって「核の危機」はすぐ近くにありました・・・昭和20年(1945)年7月20日朝、1発の大型爆弾が長岡市左近町の畑に・・・原爆の訓練として米軍が投下した「模擬原爆」でした。それからわずか12日後の8月1日、長岡の町は大規模な空襲を受けました。そして6日には広島、9日には長崎に「新型爆弾(原子爆弾)」が投下されるという悲劇がおこりました。「次は新潟」とささやかれると10日、新潟市は艦載機40機による銃撃を受け、おけさ丸の乗客数人が死傷、昭和石油の大タンクが黒煙を上げて炎上するという事態に、新潟県知事は11日、布告を発し「全市民に徹底疎開」を命じ、その日の新潟は無人の町となり夜は真っ暗闇に包まれたと聞いています・・・そして15日終戦を迎えます・・・

アキハっ景

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